栃木県宇都宮市でおすすめの美味しい肉屋のコロッケは松井精肉店
子供の頃から愛して止まなかったコロッケを久しぶりに食べたところ、驚愕の事実が発覚した。
松井精肉店は美味しいハイセンスの店である
コロッケは、車を所有している母親に購入を依頼した。
そして懐かしい香りが満ちているビニール袋から、懐かしいデザインの紙袋を取り出した。
そのテイクアウト用の紙袋には、開口部分を封するシール・テープが貼られている。
そこには、次のようなメッセージが記載されていた。
「い・・・センスの店 THANK YOU」
さて、このメッセージをどのようにして受け止めるか。
まず、「THANK YOU」は、そのまま「購入していただいてありがとうございます」との意味だろう。
問題となるのが、「い・・・センスの店」の部分だ。
「い」の前にも、何か文字が書かれている。
「センス」は名詞。
それを修飾するように、「い」が前段に設けられる。
この構成から察するに、「〇〇い」は形容詞ではないかと推察される。
そして「い」の一つ前の文字の形から推測すると、「し」ではないかという推測が成り立つ。
「しい・・・センスの店」
私はこのコロッケの紙袋を20年ぶりくらいに見たにもかかわらず、しかも同時は紙袋のことなどさして気にしたことがなかったにもかかわらず、どこかこの紙袋及びシールのことを「理想的」な気がしていた。
その感覚は、イデア界の理想的な何かを想起(アナムネーシス)している感覚に似ていた。
古代ギリシャのアテナイの有名な哲学者プラトンは、なぜかわからないけどどこかで見覚えがあるしその事物が好きである、という状態に我々現象界の人間が入った時、それは我々が「イデア」を想起しているのだと唱えた。
そして私もこの紙袋及びシールテープを見た際、これに対し憧れを抱く(エロース)かのような感覚に落ちたのである。
なぜか。
まず、折り鶴が良かった。
折り鶴には平和の象徴の意味合いがある。
この美味しいコロッケをみんなで食べれば平和になれる、幸せが訪れる、というイメージが膨らむ。
さらに、紙袋という材質に、紙で折られるべき折り鶴が描かれているという材質の一致が、とてもしっくりきたし、美しく感じた。
記載された折り鶴は、まさにイデアの折り鶴のように、「完全な折り鶴」であった。
顔と首との角度、顔の先端の先鋭具合、尻尾の立ち具合、羽の開き具合、いずれもパーフェクトである。
我々が折り鶴を折る際、どうしても羽が左右同一の形にならなかったり、顔の先端に変な折り目がついたりしてへなったり等、どうしても「真の折り鶴」に到達できない場合が多い。
しかし、この橙色の折り鶴には、どの点を取って見ても非の打ち所がない。
その折り鶴がたくさん記載されている。
縁起の良い千羽鶴だ。
次の写真を見て欲しい。
千羽づるといえば、そこに静的に飾られているイメージがある。
すなわち、そこに鎮座する静かな平和であると言える。
しかしこの折り鶴は違う。
あたかもこちらに突進してくるような、ダイナミックな描かれ方をしている。
向こうから迫り来るというわけである。平和が。
通常の平和というものはパッシブなものであり、人間が努力をして取りに行くものであるが、この松井精肉店の袋に描かれた平和は、向こうからこっちに押し寄せてくるというわけだ。
コロッケを食べれば食べるほど、身体中に自然と平和がみなぎるということを意味しているのではなかろうか、という憶測が成り立つ。
センスの高さを感じる。
そして私は、再びイデア界を想起するように、何かを思い出した。
美味しいコロッケに高いセンス。。。
「おいしい・・・ハイセンスの店」
途中でちぎれてしまったテープの残りの部分を想起するように、私はそのようなメッセージを認識した。
しかしながら、自分で自分のコロッケを「おいしい」と言ってしまう感覚や、「ハイセンス」という古式ゆかしい表現で自画自賛する状況は、やや違和感を覚える。
やはり「おいしい・・・ハイセンスの店」とは異なるメッセージが記載されているのだろうか。
ところが、このように自画自賛してこそセンスの高さの表れではないかと考える。
もはや私には「おいしい・・・ハイセンスの店」以外の理想的な解答はないと断言できるに至った。
松井精肉店は肉屋である
何を言っているのかわからないと思うが、私はこのコロッケを販売している店は、「コロッケ屋」かと考えていた。
というのも、小学生の頃、このコロッケを自分で店頭にまで買いに行ったことがなく、いつも母親が定期的に購入してきていたものだったからである。
いつもそこにある家庭の味と言えよう。
だからまさか肉屋のコロッケであるとは思っても見なかった。
今回20年ぶりくらいに「あの甘いコロッケが食べたい。まだあのコロッケ屋が残っていればの話だが」と依頼した。
最初母親は「何を行っているのかわからない」という風だったが、「甘いコロッケ」というキーワードをもとに私の意図を探り当て、無事購入してきてくれた。
その袋に「松井精肉店」と書かれていて驚愕した。
コロッケ屋ではなかったのである。
私はずっと、コロッケ屋か「じゃがいも屋」のいずれかであると考えていた。
何故ならば、コロッケが美味いばかりでなく、「芋」そのものが美味いのである。
串刺しのポテトフライが甘くて美味しい
紙袋を開けると、いつも上記のような布陣となっていた。
コロッケが5枚に、芋を串にさして揚げただけのポテトが3本。
私はこれをいもフライ、あるいはポテトフライと呼んでいた。
何しろ、自分で買いに行ったことがないだけに、正式な名称がわからない。
芋をフライにして食べるという文化は当たり前のものかと思っていが、のちに、それは栃木県あるいは隣県の北関東に多い文化であることが発覚した。
この、じゃがいもを丸々揚げただけという料理。
全く味がなさそうだと思われるかもしれない。
どころがどっこいである。
何故か芋それ自体が甘く、じゃがいもの自然な味が口中に満ち渡るのだ。
ソースも醤油も塩もその他マヨネーズ等の調味料はいらない。
そのまま食べられる上に、おかずにもなるし酒のつまみにもなる。
私はこれを昔、おかずとして食べていた。
ソースをかけない芋フライをおかずに白飯を食べる。
時には、3つほど刺されたじゃがいもを全部串から外し、白飯の上に乗せて「いもフライ丼」を構築したこともあった。
さらに3時のおやつとしても、この甘みは重宝された。
野菜と肉が豊富な甘いコロッケ
そしてコロッケ。
イデアのコロッケような、完全なフォルムのコロッケと言えよう。
そして味に関しては、上記いもフライよりも甘く、もはやおかずというよりかはおやつ、デザートとしても食べられるとの認識を得ている。
しつこい甘さではない。
自然で優しい、どこか懐かしい甘みなのだ。
もはやソースをかけて食べるとかは、イデアのコロッケに対する冒涜としか考えられない。
オーガニックにかぶれた意識の高い丸の内の方にいるOLにも受けること間違い無いだろう。
中を開けると、玉ねぎと肉が入っていた。
この玉ねぎと肉がまた非常に甘みがあり、コロッケを高みに昇華させている。
何枚でも立て続けに食べてしまう。
やめどきがわからない。
白飯にも合うし、ビールにも合うし、おやつにもあう。
完全なコロッケである。
メンチも美味い
このいもフライとコロッケのみが封入された袋を幼少時代ずっと開け続けていた私にとって、このコロッケを売る店は「コロッケ屋」あるいは「じゃがいも屋」、百歩譲って「総菜屋」としか認識できなかったとしてもおかしくはあるまい。
そしてあれから20年以上経ってこの懐かしいコロッケをかじりながら母親はこう言った。
「メンチカツも美味しいのよ」
私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
ずっとこの店はコロッケといもフライだけの「コロッケ屋」かと思っていた。
それが長い年月を経て初めて「肉屋」だとわかった上に、「メンチ」まである。
つまり、メインは芋ではなく「肉」である。
となれば、肉屋のコロッケなどという傍流に満足している場合ではなく、一刻も早く、メインの「肉」が凝縮された「メンチ」の方を真っ先に食べておくべきではなかったのか。
私は幼少時代何をやっていたのか。
芋という現状に満足して高みに登る努力を怠っていた。
あの時私は、「このコロッケはうまい。店に連れて行ってくれ」と親に頼み込み、そこにあるメニューをすべからく試してみるくらいの努力をすべきだったのでは無いか。
コロッケが美味しいからコロッケのお持ち帰りの店だ、という視野狭窄に陥って、自己研鑽を怠っていた。
しかしまだ間に合う。
メンチのみならず、生肉やその他の惣菜、弁当なども販売されているのでは無いか。
人間はいつからでも勉強できる。
次回宇都宮に来た際には、必ず店に赴き、メンチを買うという新たな目標ができた。
そして人間は何歳からでも成長できるということを証明してみせる。
住所:宇都宮市大通り3-2-11
営業時間:09:00~19:00(LO 17:30)
定休日:日曜日 祝日第2・第4土曜日
(上記情報は栃ナビ!より。
なお、年末最終日は、販売次第終了で通常よりも早めの時間帯で終了してしまうらしい(母親情報によれば)。年始は知らない。)