堀之内妙法寺(杉並区)の節分会の豆まきで、格差社会を見た。
2020/04/02
2017年2月3日、杉並区堀之内にある妙法寺で毎年盛大に行われるという節分会の豆まきに参加してみたところ、おそるべき格差社会を目の当たりにした。
これは事件だ。
なお、公式ホームページの「交通のご案内」欄によれば、その住所に基づいたアクセスの際の最寄駅は東高円寺または新高円寺であり、前者の場合は「徒歩1.2km(15分) 消費カロリー55kCal」、後者の場合は「徒歩1.0km (13分) 消費カロリー44kCal」であることを予め申し上げておく。
壇上に勝ち組
まず、妙法寺の節分会はどのような雰囲気なのか、公式ホームページの「節分会」欄をご覧いただきたい。
上記リンクによれば、その盛大さが伝わると思う。
そして特徴的な部分が、「鬼は外」とは言わないことである。
「福は内」とのみ叫ぶ。
15時から開始であるが、最前列を確保するために、やる気のある者はかなり早い段階から妙法寺に入る。
なぜ最前列か。
それは、投げられてくる小袋を確保する上で有利だからである。
小袋には福豆が入っており、その福豆をゲットするためには、なるべく前の場所を確保するべきなのだ。
では、なぜみんなは福豆をゲットしたいのだろうか。
「福豆」という名前からして、ゲットすれば福が得られるからであろう。
節分追儺会という名前の通り、豆を取ると悪いものを追い出せるという信念があるのかもしれない。
しかしそれは果たして本当だろうか。
午後3時になると、壇上に、見るからに威風堂々とした袴姿の紳士淑女が登場した。
中には、高そうなスーツにネクタイをし、その上に肩衣を羽織っている紳士もいた。
現代の正装であるネクタイと武家風味の正装である袴をコラボレーションさせた衣装は、時代横断的なフォーマルスタイルと言えた。
そのフォーマルさは、確実に地元の権力者、有力者であることを意味していた。
そして、彼ら有力者は、福を手中に手にしており、その福を我々に分け与える側にいるのだ。
まさに富を手にした勝ち組。
有力者たちが仁王立ちしている最中、その有力者の長たる者と思われるトップが開会のアナウンスのようなものをした。
そして、豆撒きが厳かに開始されたのである。
福に群がる群衆
「福は内」。
権力側の人間が豆袋を空高く投げると、混雑していた群衆がその豆に群がった。
そして、我先に豆をゲットできるようにと、両手を高く上げている。
なお、「福豆 アマゾン」で検索したところ、100gを180円程度で豆を買うことができることがわかった。
その豆を無料でゲットするために、群衆は立ち上がった。
中には、大きな袋を持参している常連と思しき人も多く見受けられた。
そのような袋を持参するのを忘れてしまったと思しき人は、帽子を脱いでそこにキャッチした豆袋を入れようとしていた。
「福は内」。
群衆は福に群がる。
我先に福を独り占めせんとしている。
「福は〜、、、」
「内!」
落ちた豆をありがたそうに拾う群衆。
ちなみに、「福豆 価格」で検索したら、今度はアマゾンで100gあたり120円程度で購入できることもわかった。
豆の投げられた方向に人々は動く。
権力者が左右交互に豆を投げると、民衆は左右に揺さぶられた。
よりたくさんの福豆を投げてくれる権力者には、民衆からの注目が集まった。
中には、まるでアイドルを写メするかのように、スマホで権力者の写真を撮る者まで現れた。
そして豆が投げられれば、写真を撮るのをやめて豆を拾う。
我々は子供の頃、「落ちた食べ物はバッチいから拾っちゃダメ」と親に教わった。
落ちているお菓子を拾って食べてはいけないことは、小学生でも知っているし、幼稚園児でも知っていた。
また、私が以前読んだ本に「ホームレスといえども落ちた食べ物は拾って食べない。もしもそれをやってしまったら、人間としての尊厳を失ったような気がするからだ」と記載されていた。
群衆はそのような基本的なことを忘れていた。
我を忘れて豆を拾っていた。
袋に大量の豆を入れて喜んでいたし、私の足元近くに落ちた豆をものすごい勢いでぶんどっていく子どもがいた。
100g数百円で買える食料をタダでゲットするために、我を忘れていた。
まるでミレーの落穂拾いのような資本家と労働者の構図
私はこの時、ミレーの落穂拾いを思い出していた。
その絵画の中では、3人の婦人が一生懸命落ち穂を拾っている。
本当は落ち穂など拾ってはいけないのに。
しかし、生きていくためには食べ物が必要であるために、そのような規則、原則を破って食べ物を拾う。
悲しい底辺層である。
そして節分会では、落ちた食べ物は拾って食べてはいけないという原理原則を忘れた子供から老人までが、食料に必死になって群がっていた。
豆に翻弄されていた。まるで愚民のように。
権力者の投げる方向に操られている。
99%の人々は、1%の権力者の思いつきによって、簡単にコントロールされていた。
いや、食料を拾っているわけではなく、福をもらっているのだ、という風に解釈しようと思えば、この現象を理解できそうな気がした。
しかし、そんなに大量にぶんどって、何が福であろうか。
他人の足元に落ちた豆。
すなわちその豆はすでにその他人のテリトリー内に落ちたものであるから、その人に帰属していると理解するのが自然なことであろう。
それを、他人のプライベートゾーンに割って入ってでもぶんどった豆に、どのような福があろうか。
そして、これだけの民衆が集まっていたら、一人1つの割合でもらえるかどうかも怪しいのに、一人で大量にゲットしようとするその卑しさに、福が訪れようか。
断言しよう。
彼らは福をもらいに来ているのではない。
無料で美味しい食料をゲットして、おやつにしたり夕食のおかずにしたりしようとしているだけの愚民だ。
私は子供がいるので、子連れ優先の席で参加したが、そうやって我先にぶんどった豆を食べていいと教えることの教育上の観点について、深く考えてしまったのである。
子供たちの将来が、日本の未来が危うい。
持てる物は壇上で優雅に福を与え、持たざる者は分け前を必死にもらうしかない。
なお、ベビーカーで混雑した初詣に来ることを禁じたことが昨今ニュースになっていたが、妙法寺はベビーカーを置くスペースがあり、子連れに優しい場所であったということを付記しておく。
我が家はベビーカーは使っていなかったけれども。
タダで食べる豆は美味しい
さて、悲しい思いで帰宅したところ、我が家のバッグに大量の豆袋が入っていた。
数えてみると、ちょうど30袋あった。
「節分会 堀之内 やくよけ祖師 福豆」
よくみると、黒のように濃い色合いのフォントと、薄い青色に近い色合いのフォントとの2種類があった。
中を見ると、一袋あたり30粒程度の豆はありそうだった。
これが30袋もあると考えると、相当得をした気分になった。
アマゾンとかで有料で買う意味がわからなかった。
こうやって楽しいイベントに参加して権力者に群がって拾い集めれば福豆が拾えるのに、わざわざお金を出して買う人の気が知れなかった。
そして、妙法寺の豆の味は本当に美味しかった。
とてもいい豆を使っているのだろうと思った。
食べ始めると手が止まらない。
常備してあった缶ビールを開けて福豆をつまみにしたところ、非常に捗ることがわかった。
会社の有休を取得してまで、豆を拾いに来た甲斐があったと実感した。
缶ビールを投げてくれる節分会とかが今後出現すれば、より一層成し遂げた節分が過ごせると思った。
マジでタダ飯は美味しい。
次の袋を開けると、なんと飴玉まで入っていた。
ビール→豆→ビール→豆
のローテーションでお腹いっぱいになったところに、デザートとして飴玉で締めることができる。
本当に節分の儀式は最高だし、毎年参加しようと思った。
格差の逆転が起きた
私は誤解していたかもしれない。
私は、壇上の権力者こそが勝ち組であり、地面で豆を取る人々を負け組のように考えてしまった。
改める。
このようにタダで福をもらうことができてしかも美味しい豆を食べられる身分こそ最高である。
金30,000円を払えば壇上で豆まきを行い、民主を左に右に操れる権力者サイドに回れるという噂を聞いた。
この時私は、「たった3万円で、まるでアイドルのように威風堂々とステージに上がって写メまで撮ってもらい、しかも民衆の福をコントロールできるのか。安いものだ」と思った。
しかしながら、気楽に参加してタダで福をもらったり豆をもらったりして周りの人と豆を食べながら談笑している方が幸福度は高いのではないか、という思いに至り、これは壇上の1%よりも残り99%の方が幸せであるという格差の逆転現象が起こったのではないか、パラダイムシフトの発生ではないかとの思いを抱いた。
社会学的な見地からみて、さらなるフィールドワークが必要とみられる。
今後も率先して節分会に参加したい。
2020年、50袋取る
2020年追記。
娘が2歳になって一人で立てるようになったので、私も豆拾いに参加。
結果、5歳の息子、妻、私の3人を主力として、合計約50袋ゲット。(2袋食べてしまったし、さらに近くのご老人におすそ分けしてしまったので、写真では41袋しか写っていない。)
さらに、阿佐ヶ谷の商店街のこども向け豆まきにも参加したので、別のラムネ菓子とか豆とかもゲット。
2月3日は豆まきに限りますなあ。