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便意を我慢して漏らしそうになる限界が気持ちいい人ほど金持ちになる

   

便意を我慢して漏らしそうになる限界が気持ちいい人ほど金持ちになる

みなさん、今日もギリギリの便意を楽しんでいますか?

私はつい先ほど、いつものように限界ギリギリのうんことのせめぎ合いを楽しんだ結果、「パンツが肛門周りの肉に吸い込まれていることに気づかなかった」という、初心者が陥りがちな初歩的なミスにより、戦いに負けました。

パンツにうんこをつけた際の敗北感ほど悲しいものはありません。

我が家には、パンツにうんこを漏らす人間として、幼児の男子と30代の半ニート男子の2名がいるわけです。

人間は、子供から大人に成長し、やがて子供に戻る、という真理を実感せずにはいられません。

ところで、この「大便を我慢して漏らしそうになる寸前」を楽しむ人間とそうでない人間がいることに最近気づきました。

そして、おそらくこれを「快感」と感じる人間ほど、勝ち組になるのではないか、という理論を発見したわけです。

それについて、以下で詳細に見ていきたいと思います。パンツにうんこをつけながら。

エリクソンのライフサイクルと便意に対する感情の変遷

本題に入る前に、人間のライフサイクルと、人間の便意に対する感覚についての変遷について考えてみたいと思います。

エリクソンによる人間のライフサイクル論は有名な話ですが、ライフサイクルの段階が進むにつれ、身体や精神の変遷も進むわけですから、当然、排泄という物理現象や排泄行為に対する感情というものも、変遷していくわけです。

エリクソンの「クソ」の部分と、うんこの愛称である「クソ」に、発音上の共通点が見いだせるあたりも、心理学、社会学、生理学の学際的なつながりを感じずには入られません。

さて、どの本にも大体似たような表現で書いておりますが、エリクソンは主に、人間のライフサイクルを「乳児期」、「幼児期」、「児童期」、「学童期」、「青年期(思春期)」、「成人期」、「壮年期」、「高齢期」の8段階に分けました。

この各々の段階と便意に対する思いについてを大まかに分けると、3段階に分けられるのではないかと考えました。

「乳児期」、「幼児期」、「児童期」、「学童期」と便意

この時期、食べて飲んだらウンチが出る、という段階だと思います。

これは当然なことで、食べたらうんこが出るのは当たり前。

というか、書いていてあまりにも当たり前すぎて何を言っているのかわからないくらいに当然なことであり、一日3食食べればそれに応じた大便が出る訳です。

とりわけ、私の「学童期」などは、何も考えなくても一日に2回は出ていたわけです。

まず朝する。

そして学校から帰ってきたらうんこをする。

そうやって一日に複数回のうんこをしている私を見て母親が「いいわね。そんなに簡単にウンチが出て」などと羨ましがる理由が全然理解できませんでした。

つまりこの段階では、インプットしたらアウトプットする、という、非常に簡単な関数で表現できるような状態が続くわけで、そこに関与する変数は非常に少ない。

「青年期(思春期)」と便意

このあたりから、うんこがそんなに単純な話ではないということに気づき始めます。

何しろ、昔のようにうんこが簡単に出てくれない。

意味がわからないのですが、毎日3食食べているのに数日うんこが出ないという便秘なるものに出くわすわけです。

これに接し、当時私が考えたことは、「うんこをしなくて済むなんて最高ではないか」というものでした。

何しろ、小学生の頃は毎日うんこが出まくる上に、「うんこを学校や友達の家ですると恥ずかしい」という悪しき思い込みが蔓延していたために、便意を催してもうんこができない。

その場合どうなるか。

うんこを我慢するのは苦しいのです。

便意を催しているのにできない。

学校や友達の家でうんこをしたら恥ずかしいしバカにされるに決まっているから、それが怖くて我慢せざるを得ないのです。

冷や汗をかきながら肛門周りの筋肉をフル活用してどうにか帰宅して無事に排便できた際は救われた気持ちになりますが、途中で力尽きて漏らした際の精神的な傷は深い。

そして問題となるのは、「便意が怖くて友達に家に泊まったり修学旅行に行ったりするのが嫌」ということです。

うんこで友達の家の便器を汚したら最悪だし、修学旅行でうんこに行くような場合には、「今あいつはうんこしてるぜ」などとクラスのみんなからからかわれるに決まっているのです。

そのような思いに苦しめられてきたわけですから、青年期に入って便秘になり、「便意によってバカにされることがなくなった」というのは一種の喜びでした。

だから中学生の時は旅行に行こうが友達の家に泊まろうが、何らうんこの心配をする必要がない。

うんこが出なければバカにされることがないからです。

便秘最高。

ところが、そうやって浮かれ気分だった中学生が高校生になる頃、ある現象にぶつかります。

それは、便秘になると腹が張ったり腹痛になったりして気持ち悪いというものです。

うんこが出ないとガスが溜まったりするし、しかもそのガスが超臭いので、便秘中に外出先でオナラをすることなど絶対にできません。

だからオナラを我慢するなどによってますます腹痛を助長させる。

最悪の循環です。

ではなぜこのような便秘が発生するのかというと、私はそこに多分に「精神的な要因」が関係しているのではないかと考えました。

青年期になると、小学生のような単純な思考回路だけでなく、恋愛、友人関係、親子関係など、人間関係にまつわる様々なことに悩まされることになります。

そのように悩むことは腸に悪影響を及ぼし、排泄のメカニズムを鈍らせることにつながります。

これが、中学生及び高校生の時の便秘の原因の一つではないかと思われました。

そこで、これ以降は、便秘にならないための工夫を凝らす必要が生じてきます。

そうしないと、腹痛やオナラの臭さに悩まされ続けることになります。

人間は成長とともに悩みが増えることを知り、一種の悲しみを覚える時期でもあります。

「成人期」以降と便意

さて、いよいよ学生という身分から卒業して社会人デビューし、日々我々が考えることは、「いかにして子供の頃のあの気持ちいい便意を取り戻すか」です。

幼少期においては、何も考えずに、毎日食って遊んでいるだけでうんこが気持ちよくすんなり出た。

そして青年期を通して我々が学んだことは、「今後は工夫しないと理想の便通は生じ得ない」という悲しみ・諦めを伴う人生の摂理です。

そして我々は、従順に上司のいいなりになっているフリをしながら、頭の中で「乳酸菌」とか「腸もみマッサージ」とか「コーラック」とか「食物繊維」のこととかを毎日考え続けるわけです。

これはサラリーマンを卒業して引退しても同様であり、筋肉や内臓の働きが衰えた我々は、工夫をしないと大腸がうんこで詰まることになります。

もはや便意との戦いで一生が終えると言っても過言ではないこの人生。

それは我々にとても過酷な試練を与え続けるわけです。

しかし、ここで諦めるか否かで、その後の人生が左右されると言っても過言ではありません。

努力して腸内環境を整えたアリには、大便がするっと出る快感を毎日楽しめる一方、怠け続けたキリギリスには、臭いオナラと慢性的な腹痛、腹の張りなどといった苦痛に耐えなければならない日々が訪れます。

さて、努力して子供の頃のような便意を取り戻すことができたとします。

毎日快便で、もはやあの気持ちいいうんこを出すことが日々の生きがいになっているような幸せ絶頂の状況。

順風満帆な人生に、これ以上もはや望むものはない、と我々は思います。

ところが、話はこれで一件落着ではないのです。

うんこを出せるのにあえて出さないという優越感

ここからが本題なのですが、腸内環境が整って日々気持ちいいうんこを出せるようになった私は日々、便意を催すたびに、すぐにトイレに駆け込んで「気持ちいい」と考えたり、幸せのため息を漏らしたりしていたのですが、ある日、「この便意を我慢してみたらどうなるのだろうか」と思い至りました。

すると、幸せ度がより一層増したのですね。

例えば、便意を催したとして、1分後にそれを排泄してしまっては、幸せ時間が約1分程度しか持続しないわけです。

しかしながら、これを5分我慢すれば、幸せ時間が5分持続する。

どういうことかというと、子供の頃、遠足当日よりも遠足のための準備をしている時が一番楽しいと言われますね。

準備をしながら、遠足当日のことをアレコレ考える時間が楽しいというアレです。

一日前などは、ワクワクしてもう眠れないなどというくらいに遠足への期待値が高まるわけです。

私はコミュ障だったので遠足とか修学旅行とか全然楽しくなかったし、ましてその準備期間などは、いかにして遠足や旅行を休むか、ということを延々と考え続けて憂鬱になるタイプだったのですが、世間一般的には遠足は楽しいらしいので、とりあえず準備期間も楽しいということにしておきます。

それで、この「排泄行為」もこれに非常によく似ている。

トイレで排泄するその瞬間はもちろん楽しいのですが、「トイレで排泄をする瞬間を思い浮かべながら排泄を我慢する」というその「準備期間」が超楽しいのです。

まして、我慢しすぎてもう肛門を緩めれば漏れ出てしまうなどという寸前は、ワクワクして脳内にドーパミンやらアドレナリンやら、いろんなものがドバドバと分泌されているのを感じます。

この快楽がどうして起こるのかについて考えると、ある種の優越感が左右しているのではないかと感じます。

つまり、青年期において便秘に悩み、出そうと思っても全然出なかった自分がいたとして、今はいつでも排泄できる能力を有している。

昔は便意と戦い、いつも負けていた。出したいのに出せない劣等感。

うんこごときに負けているという悔しさ。

しかし今は、便意をいつでもコントロールできる。

うんこが出たがっているけれども、出してやらない。

「オラオラでたがってんの?ん?でも過去お前は全然出たがらなかったよなぁああ。あ? あん時お前が出てくれなかったから超苦しかったんだけど。んで、今更なにでたがってんの?ん?出たいの?ん〜〜〜〜どうしようかなあ。出してやろうかなああああぁぁ。。ん〜〜出してあーげない」

という、かつての強敵であるうんこを見事にコントロールしているこの優越感。

地獄の淵から這い上がった人だけた楽しめるゲーム

しかし、これほど快感なこの「うんこをあえた我慢する」というゲームをみんなが毎日やっていると考えていたのだけど、そうでもないということを最近知りました。

むしろ、うんこを我慢している時間など苦痛でしょうがない。早く出して快感になりたい。と考える人もいるようです。

私には信じられないのですが、この原因として、以下のことを考えました。

すなわち、「過去に便秘を経験していないので、うんこがすんなり出せるということ自体に幸せを感じないし、ましてその準備期間を楽しむなどという考えすら思いつかない」というものです。

上記において、私は「青年期」に必ずみんな便秘を経験するというような論調のことを書きました。

しかしながら、全く便秘に悩まされずに大人になり、その後も便秘とは無縁の人もいるという凄まじく幸運な体質の人もいるようです。

ところが、このような人は、うんことの壮絶な戦いを経験してない結果、うんこに対する執着が薄い。

これは、バブル世代のような上昇志向の人が最近のゆとり世代の若者のやる気のなさを嘆くような構図に似ています。

バブル世代の人々は、貧しくて大変な幼少期を過ごし、努力して成し遂げる事で今の裕福な地位を築きました。

しかし、ゆとり世代と呼ばれる人は、もともとが裕福であったため、頑張って成功体験を得るという機会に巡り会うことが少なかった。

これを便意に当てはめて言えば、青年期に地獄のような便秘という大変な時期を過ごし、努力して便意の復興に尽力する事で今の快便の地位を築いたという成功体験を得ています。

一方、そもそも便秘を経験してこなかったような、ぬるま湯でぬくぬく育った人は、便意の獲得という壮絶な戦いを経験しておらず、便意をコントロールすることがいかに幸せかということを知らない。

同じ便意であっても、それをゲームとして楽しめるか否かにおいて、過去の経歴が大きく左右しています。

どうせうんこをするにしても、それを楽しんだ方が明らかに幸福度の高い人生を送っていると断言できます。

つまり、辛い時期を経験して乗り越えてきた人ほど、人生を楽しむすべを知っている。

すなわち、便意をコントロールしてオラオラと毎日楽しんでいる人が、結果的に勝ち組というわけです。

本当に、努力は裏切らない。

マシュマロ実験と便意ゲームとの共通性

当ブログをお読みになられるような、意識の高いエリートビジネスパーソンならとっくにご存知の「マシュマロ実験」なる有名な心理学の実験があります。

これは、子供に「マシュマロを今1個あげることができるけれども、所定時間後までマシュマロ一個を我慢し続けることができれば、マシュマロを2個あげよう。さあ今もらうか、あとでもらうか、選べ」というような内容の質問を出し、子供がどう反応するかを実験するというものです。

これはすなわち、今の快楽を選ぶか、それとも今は我慢して後になって増幅された快楽を選ぶか、という「欲望のコントロール」ができるかどうかを見るための実験なのですが、重要なことは、この「欲望」をコントロールして先延ばしできる子供ほど、将来勝ち組になっている確率が高いということです。

当然、欲望を管理できる子供の方が、将来に金持ちになっている可能性が高い。

これを便意に当てはめると、「今、うんこを出す快楽を得るか。それとも、今は我慢して数分後に出すことを選ぶか」という選択肢にも似ています。

当然、今排泄すれば、すぐに快感が得られます。

しかし、今は我慢した方が、将来にもっと気持ちよくなった排便を享受することができます。

このような長期的な目線を持てるかどうか、そして、「便意」という欲望を先延ばしにコントロールできるかどうかは、ビジネスで成功する上でも非常に重要なポイントです。

金融工学における投資の考え方にも似ているのですが、今排便をしたら、快楽はそこで終わりなわけです。

しかしながら、例えばそれを30分我慢すると、「漏らしてパンツにうんこをつけるかもしれない」というリスクプレミアムを享受して、より大きな排便快楽のリターンが獲得できるというわけです。

しかし、我慢しすぎると、腸の活動が抑制されて便秘になってしまうかもしれないという説もあり、我慢のしすぎは厳禁です。

PDCAサイクルを回し、どれくらい我慢するかという最適解を得るためには幾度の努力が必要であり、その努力は長い時間がかかるものです。

うんこという単なる生理現象に対して、これほどたくさんの努力をする人が、ビジネスで成功しないはずがありません。

したがって、はっきり申し上げますと、この「便意ゲーム」というお金のかからない上に毎日楽しめるゲームを通してビジネスの素養を養っているか否かは、金持ちになれるか否かを左右していると言っても過言ではありません。

そして私は日々これを楽しみ続けた結果、未だに半ニート生活を謳歌しているわけです。

うんこのついたパンツを隠す方法

さて、こうやってうんこを漏らしたことを、あたかもものすごいビジネストレーニングであるかのように祭り上げたところで、このうんこのついたパンツという現実は消え去らないので、どうにかしないといけないわけです。

通常、私はこれに洗剤をふりかけ、手揉み洗いで洗って洗濯機には入れず、自分の部屋にこっそりと部屋干ししていました。

何しろ、通常は妻が洗濯をして干すわけですが、いつもなら旦那のパンツが「1枚」なところ、突如「2枚」あると、おかしいわけです。

そして、「なぜ2枚あるのか」という質問をされた場合、返答に困るわけです。

そこで手揉み洗いで対応していました。

しかし、最近は洗剤で手揉み洗いしてうんこを綺麗に落とした後、そのままさらに洗濯機にも入れるようになりました。

なぜなら、うんこを漏らすことは全然恥ずかしいものではないからです。

むしろ、親である私がうんこを漏らしたくらいでオドオドしていたら、子供の目にどう映るでしょうか。

はっきり申し上げますと、小学生くらいの間は同級生の誰かはうんこを漏らします。

それが息子だった場合、そんなことでくよくよして欲しくない。

また、それが息子ではなく他の子供だった場合、そんなうんこを漏らした友達のことをバカにするような息子にはなって欲しくない。

うんこごときで恥ずかしいとかそういう風潮を日本から無くしたい。

うんこを漏らすことなど怖くないのです。

本当に怖くないのです。恥ずかしくもない。

全然恥ずかしくない。

恥ずかしくない。

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