電車で妊婦さんに席を譲ったら他のおばさんが席に割り込んで座った話
電車内で席に座っていたら、「おなかに赤ちゃんがいます」なるキーホルダーをバッグにつけた若い女性が乗り込んできて私の目の前に立ったので、私は立ち上がってその妊婦さんに席を譲ったところ、その隙に全然関係ないオバはんが割り込んできた。
今しがた私がその妊婦さんに譲ったばかりのその席にババアが座っていたのである。
由々しき事態である。
Contents
妊婦さんの席を平然と横取りするおばさんについて
私は目を疑った。
私はさっきまで席に座っていた。
そして私は、立っている妊婦さんにその席をゆずるために立ち上がった。
そして妊婦さんは、私のその意図を汲み取り、承諾して私に一礼して小さくお礼の言葉をかけてくれた。
つまりここで私と妊婦さんとの間には、契約が生じた。
今占有しているこの席を妊婦さんに譲るという契約である。
すなわち、この契約関係が生じた以降は、その席に座るのは妊婦さんであるはずだった。
ところが、なぜかその席に、ババアが座っている。
なお、ここでは「ババア」、「おばさん」等のような表現を使っているが、実際には見た目40歳くらいの女性であった。
言い方によっては「お姉さん」と表現することも可能な年齢の見た目ではあった。
が、あえてそのような表現をしている理由は、まあ私が憎しみを込めて表現しているからである。
まあ憎しみを取っ払って「女性」と表現することも可能といえば可能である。
ところが、一方で妊婦さんも同様に「女性」であるから、「女性」と「妊婦さん」との両方で表現すると、「女性」と「妊婦さん」とが別人なのに、同じ人を指しているかのような文章にも解釈できてしまってまぎわらしくなってしまう危険性がある。
では、そのババアに敬意を表して「お姉さん」と呼称しようとすると、「お姉さん」から想起する年齢は大体20歳台であることが多く、今回の「妊婦さん」は見た目20歳台だったので、どちらかといえば「お姉さん」という表現は「妊婦さん」の方に使ってあげる方が適切である。
してみれば、やはり今回のその女性を「おばさん」または反抗期の男児がお母さんを呼ぶさいに使う表現としておなじみの「ババア」を使う方が混同を生じる危険性が少ないため、あえて汚らしい言葉の「ババア」や「おばさん」、「おばはん」なる表現を使うことにした。
話が逸れたのでもう一度事実関係を確認する。
ついさっきまで、私が席に座っていた。妊婦さんが立っていた。
そして、私と妊婦さんとの間で交わした交渉によれば、私と妊婦さんとの間の位置関係を交換しよう、という契約であった。
したがって、それ以降は、私が立つことになり、妊婦さんが座ることになっているはずだった。
しかし、なぜか席に座っているのはババアであり、私も妊婦さんも立っている。
よく事実関係が理解できなかったので、再度詳細に私と妊婦さんとの間での取引を確認しておきたい。
まず、私は席に座っていた。
そこに妊婦さんが乗り込んできて私の前に立った。
私はその妊婦さんにマタニティーマークがあるのを確認し、その妊婦さんが席を譲ってほしい旨の意思表示をしていることを確信した。
そして私は席を立ち上がり、「この席をどうぞ」というジェスチャーをした。
妊婦さんは笑顔で私に一礼をした。
私は、「いやー、いいことをしたなあ」と思いながら、さっきまで私が座っていて今は空席になっているはずのその席を見下ろした。
しかし空席になっているはずのその席に、見知らぬババアが座っている。
私は確かについ3秒前まで座っていた。
そして2秒前に立ち上がり、1秒前にはその席は空席だったはずである。
しかし1秒前から今現在の間にババアが割り込んできている。
ババアのスピードに驚きを隠しきれない。
そしていけしゃあしゃあと席に座り続けている。
妊婦さんが立っているにもかかわらず、そして私は妊婦さんに席を譲ったにもかかわらず、ババアが我が物顔で席を横取りして占有する。
現代社会が生み出した歪みを感じずにはいられない。
私とババアは一心同体だったのか
しかしよく考えてみると、そんな超高速で席を横取りすることなど可能なのだろうか。
実際、私はババアが席に座る瞬間を見たわけではない。
私が想像した状況としては、私が立ち上がるとともにスライド気味にババアがシュッとその席に座り込んできた、というものである。
しかしそうするためには、私が立ち上がるであろうことを予測してフライング気味に私の席を確保するような先読み能力と瞬発性が要求される。
そんな瞬発性をババアが発揮することは可能なのだろうか。
そう考えると、そんな高速でババアが私の席、いや、妊婦さんの席を奪うことなど難しいのではないか、ということに思い至る。
しかし、私が妊婦さんに譲ったはずの席には今現在見知らぬババアが座っていることをどう説明すれば良いのか。
ここで恐ろしい仮説が浮かび上がる。
私がずっと座っていたその席には、ずっとババアが座っていた。
つまり、同じ席に私とババアが同時に座り続けていた、という話である。
何を言っているのか自分でもよくわからないのだが、しかしこれならば、仮に私一人がその席から立ち上がっても、まだババアがその席に座っているのだから、その席は空席ではなくずっとババアが座っていたことになるから、上記不思議な現象が一気に解決される。
私が立ち上がるまでの間は、同じ空間に私とババアが同時に存在していた、ということになる。
つまり、私とババアは量子性を帯びており、私が立ち上がるまでの間は、その席には私も座っているしババアも座っているという状況であった。
あるいは、私とババアのいずれかが座っており、いずれが座っているのかが確定できていなかったが、私がその席を放棄して立ち上がることにより、席に座っている人間がババアに確定された。
すなわち私とババアとは不確定要素として一心同体だった、という説である。
しかしその場合、私とババアとによる不確定要素は他者から見てどのような存在に見えていたのか。
おそらくある瞬間はババアであり、他の瞬間は私であったと思うのだが、そのように交互にババアと私とが入れ替わっていると、友人や同僚はその日「いつからババアになったの?」と尋ねてきたはずであるが、そのようなことはなかった。
つまり、私とババアとの一心同体説は消えることとなる。
私はババアの膝の上に座り続けていたのか
となれば、不確定要素としての私とババアではなく、私とババアとで各々確定された要素同士が同じ席の上に座り続けていたという推察が成り立つ。
すなわち、私がババアの膝の上にずっと座り続けていたという説である。
これならば、私が席を立ち上がってすぐに席を振り返っても、そこにババアがいることに何の不思議もない。
なぜなら、ずっとそこにばばあがいたわけだから。
それにしてもこのオバハンは、とても寛大な心の持ち主だ。
私が何の許可もなく図々しく膝の上に座っていたのに、何も文句を言わずに席に座り続けていた。
のみならず、オバはんがそうやって私よりも先に占有していた座席を、いけしゃあしゃあと私は妊婦さんに譲ろうとしている。
もしも私がオバはんの立場だったら、「何であたしの膝の上に座ってんの。重いんだけど。しかも勝手にあたしの席を他人に譲ろうとしてるとか、何なの」と怒り心頭だろう。
しかし妊婦さんも妊婦さんである。
私がずっとオバはんの足の上に座っていたのなら、私は妊婦さんに、「このオバはんの膝の上にどうぞ座ってください」などと非常識なことを言ったことになるが、それに対して何の違和感もなく「ありがとうございます」と例を言う妊婦さん。
なかなかの精神の持ち主である。
いや、というか膝の上に座り続けるとか普通ありえないから、妊婦さんから変な目で見られるに決まっているし、それ以前に車内のいろんな人から「あの人何で他人の膝の上に座り続けてんの。アホなの」とかいう視線を浴びているはずだろう。
というより、すでにオバはんに私はどつき回されているはず。
となれば、私がオバはんの膝の上に座り続けていたという説は消えた。
席を横取りしてきたおばさんにどう対処すべきか
こう考えると、やはり私と妊婦さんは、このオバハンに席を横取りされたと考えるのが自然である。
ところが、この「横取り」という表現がまた正しくない。
私から見ればその席は「私が妊婦さんに譲ったもの」であり、妊婦さんから見ればその席は「私から譲られたもの」なのであるが、オバハンから見たら、「単なる空席」なのである。
そして電車内の座席が誰の所有物でもなく公共の椅子であることに鑑みれば、空席に座る権利は誰もが等しく有しているのであり、別に私や妊婦さんが特定の座席に対して所有権を訴えることはできないのである。
あくまでも倫理の問題であり、倫理的にはその椅子は妊婦さんが座るべきものなのであるが、倫理観などはよくわからないふわふわしたものであって、急にババアが割り込んできたとしても何ら文句は言えないのである。
しかし当然ながら、私はせっかく妊婦さんに譲った座席を全然関係ないババアに取られたことで怒りを覚えたし、悲しくもなった。
加えて、妊婦さんが近くにいるのに平然としているババアがこの世にいることに憂鬱にもなった。
そこで私は正義感に訴えて、「すみません、私妊婦さんに譲ろうとして立ち上がったんですけど、どうか譲ってくれませんか」と頼むこともできた。
しかし私は色々と考えた。
仮にそれでオバはんが「あ、そうですか」と言って席を再度立ち上がるとする。
実を言うとオバはんはずっとスマホに夢中になっていて、私と妊婦さんとのやりとりはおろか、そもそも近くに妊婦さんがいることにすら気づいていない可能性があったからね。
だからその場合、バツが悪くなったすぐに席を退いてくれただろう。
そして妊婦さんがそこに座る。
ということはつまり、バツが悪くなったオバはんに見下ろされたながら妊婦さんは延々とその後座席に座っていることになる。
これは妊婦さんにとって非常にストレスフルな状況で座り続けることになりはしないだろうか。
ストレスは胎児に悪影響を及ぼすかもしれない。
だから私は何も言えず、苦笑しながら妊婦さんに謝るしかなかったのである。
妊婦さんは「気にしないでください」といった雰囲気の表情を浮かべた。
私はずっとその馬にいるのも変な雰囲気だったので、少し離れた場所に移動した。
おそらく妊婦さんは、「オバはんに指摘できない甲斐性のない男」、「席の譲り方が下手」といった印象を私に対して抱いたことと思うし、実際私も自分の不甲斐なさを呪った。
妊婦さんへの上手な席の譲り方
というわけで、そもそも私の席の譲り方が下手だったがために、第三者に席を奪われるという悲しい事態を招いたわけだが、ではどうやって譲ればよかったのか。
実は私も、いつも席をゆずる時は、「全然関係ない誰かに席に横入りされたらどうしよう」という不安は持っていた。
昔みたドラマで、次のようなシーンがあって、それをすごく印象的に記憶しているからである。
すなわち、老人に席を譲ろうとした主人公の小学生が立ち上がったすきに、全然関係ない女性がそこに座ってしまって、主人公が落ち込む。
気弱な主人公はその女性に何も指摘できない。
そして主人公のクラスメートのいじめっ子軍団がそのシーンを一部始終見ていて、主人公をバカにする。
という内容であった。
そんな小学生のような事態にはならないように、いつも席をゆずる時は気をつけているのだが、実際に全く関係ない第三者に割り込まれることには一度も遭遇したことがなかったので、油断した。
ほんとうに席を奪われた。
だから私は、立ち上がってから「この席をどうぞ」のような意思表示をするのではなく、座ったまま妊婦さんに「席座りますか?」と話しかけるなり意思表示するなりすればよかったのだ。
しかし私はクソのような日本的な慣習が身についており、初対面の相手に対して、その相手が立っているのにこっちは座ったまま会話するとかいう失礼なことはできないという思いがあり、どうしても相手に合わせて立ち上がってしまう。
ならば、立ち上がる際に私は自分のカバンを椅子に置いたままにすればよかったのか。
しかしその場合、妊婦さんにん「いや、次で降りるからいいですよ」のように断られた場合、私は再度その座席に座ることになるのだろうが、そうなると、なんか「そうやって何が何でも席を確保しておくとか、卑しいやつ」のような雰囲気がしてまた惨めな感じなのである。
席なんかに固執せず、座席を奪われようが何だろうが第三者にくれてやる、のような大盤振る舞い感がある方が大人としてかっこいいような気がするので、保険をかけて座席にカバンを置いておくとかいうことはどうしてもできないのである。
ところが今回の場合は、ゆずるべき相手が妊婦さんであったので、やぱりカバンを置いておくべきだった。
いや、それ以前に、ちゃんと声に出して「この席座りますか」と言えばよかったのかもしれない。
私は上記で「席をゆずるような意思表示をした」のような表現をしているが、実際にはほとんど声に出さなかったのである。
表情とジェスチャーだけで、「あなたが妊婦さんだと気づいたのであなたに座席を譲ります」といった旨の意思表示をしただけなので、第三者には私が席を譲ったというよりもむしろ単に席を立ち上がって電車を降りるくらいにしか見えなかったとしてもそれはそれで仕方がなかったのだろう。
ところが、私があえてそうやって声に出さずに席を譲ろうとしたことにも理由はある。
というのも、最近はマタニティーマークをつけている妊婦さんに冷たくあたるようなアホが電車内にいることもあるらしく、今回私が譲ろうとしている相手が、「妊婦だという理由で席を譲られてしまうことの悪影響」を気にしている妊婦さんだったらどうしようという不安もあったのである。
だから、私は誰にも気づかれないように、その妊婦さんにだけわかるように譲る意思表示をしようとしてしまった。
それが失敗だったし、反省すべき点でもあるのだろう。上手な席の譲り方というのは難しく、今後永久に続く課題であることと察する。
しかし、遠目からそのババアのあたりをチラ見していたところ、その2駅後、ババアの隣の席が一つ空いて、妊婦さんは席に座ることができていたようだ。
安心した。
どうか世間の妊娠中の皆様には健康に気をつけて妊娠期間を安全に過ごしていただきたいと思う。
また、妊娠中というのは様々な点で大変なので、どうか健常な皆様におかれましては、電車やバス等の公共交通機関で妊婦さんを見かけましたら、率先して席を譲ってあげてほしいと願う昨今です。