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働く意味とか目的が分からない。お金は仕事のやりがいにはならない

      2016/04/26

働く意味とか目的が分からない。お金は仕事のやりがいにはならない

昔知り合った年下の青年、まあ今は立派な会社社長をされているのだけど、そのときはただの中学生だったその人と知り合ったのはある出版社のパーティであった。


あえて庶民になろうとする大金持ち

私がある小説賞を幸運にも受賞してその翌年に受賞されたのだそうだ。
で、いろいろ話をしていて意気投合したのでその後ご飯を食べようという話になったとき、「ボクの自慢できることは、何でも食べられるところです」とか「どこへでも行けます」とかいうことを自信満々に言う。
え、なんでそんな当たり前のことをあたかも1つの特技かのように言うのだろうとその時は不思議に思ったものだけど、その後家に招かれて、それが六本木のタワーマンションであって、親が成し遂げた大金持ちだということを知ってびっくりしたものだった。

つまり、一般的にお金持ちの家庭というのは高級なものしか食べないので、結果的に偏食になりやすい、という一般論でもあるのだろうか。
そういう一般論をあたかも打ち消したいかのように、その青年は「自分は庶民の生活だってできる」ということをアピールしたかったのかもしれない。
その後その青年の小説を改めて熟読してみると、そのテーマが「日常の退屈さに変化を加えてエキサイティングな日々を送ろう」というものであった。

どうすればわくわくした日常が送れるのか

まだ私が子供のときは右肩上がりの経済が信じられていた時代であって、我々世代のことを大人は「21世紀を担う」みたいな調子で将来の右肩上がりを担う人材のように言っていたような気がするのだけど、そういう意味では「右肩上がりにがんばって経済的に成し遂げよう」とするのが成功者の指標であって、つまりお金をたくさん得ることが人生のゴールでもあるかのようにとらえられていた時代であるような気がします。

つまり、最初からお金がたくさんある人はその時点で人生のゴールを達成したようなものであって、もはやがんばる必要がない。
がんばる必要がなければ、毎日遊んで暮らせるから毎日楽しくてしょうがないだろうなという気がします。

が、実際はそうではないようで。

たぶん上記青年がどうしてそういう小説を書いてしまったかというと、他の人は勉強をがんばって受験で成功していい会社に入って経済的に裕福になることを1つの目標とするのに対して、当人はお金持ち過ぎてもはや他の人と同じ土俵で戦う意味が見いだせないから、毎日が退屈すぎる。
退屈だから、どうにかして日常を変えたかった、という意識があったのではないか。

右肩上がりの成長を実感できるときに仕事や人生のやりがいを感じる

では具体的にどうすれば日常を変えて楽しい日常を送ればいいか。
それには他の人と同様、右肩上がりの成長曲線を描いて将来成し遂げることを目標にすれば良いわけです。
すでに成し遂げているのにどうやって右肩上がりの成長ができるのか。
そのためには、自分を低い位置、庶民の位置におとしめるしかないわけです。
「ボクは何でも食べられます」と意識的に言うことで、「自分は庶民と同じ生活をしている」ことを自分に言い聞かせていたのかもしれません。

別の事例として、私の友人に、それはもう地元の名士として成し遂げた親の元にうまれた人がいるのですが、他人から見たらその友人もすでに成し遂げているはずなのにその友人は極めて質素。
というかむしろ、あえて昔の売れない作家のように、風呂無しトイレ無しのボロアパートに一人暮らししたりしていた。
いわく、「清貧を貫いていないと感性が鈍る」とのことでした。

最近読んだ本で本多静六という先生の書いた本があるのですが、この人はとても貧しい学生生活を送っていた時代があったので、将来お金持ちになりたいがために節約して投資をして財を成し遂げたのです。
が、財を成し遂げたら悠々自適になってもう努力するのをやめたかというと、驚くことにその財をほぼ全部寄付して再び貧しい生活にあえて戻ったという。
いろいろと理由は書かれてありましたが、私個人が思うには、お金を所有することよりはお金が殖えていったり仕事を通して成長していったりするその右肩上がりの過程を楽しむことのほうが面白かったのではないかということです。

年収1000万円超の“バブル世帯” 後から気づく家電のムダ遣い (6/7ページ)にこんな記述があります。

[C家]掃除機ではなくほうき、エアコンではなく氷枕

 夫34歳/妻32歳/長女4歳/長男1歳/年収約2000万円(妻1000万円)

 Cさんは、テレビを持たない。理由は「家族のプライスレスな時間が増えるから」。電子レンジや炊飯器も持たず、土鍋や圧力鍋を使って米を炊く。

 掃除機ではなく、ほうきを活用し、エアコンには頼らず、夏場は氷枕を活用したり、濡れタオルを首に巻いたりして過ごす。

 冷蔵庫はほぼ使っていないため、今夏の「リストラ候補」だ。洗濯機や車は活用しているので「オール非電化」というわけではない。

 「どうすれば、“不便さ”をしのげるかを考えることが楽しい」とCさん。その暮らしは「節約」といった概念とは異なる次元の、心豊かに生きる術でもある。電気代は家族4人で約2900円だ。

年収2000万円あれば、良い家に住み、便利なサービスに囲まれて楽に過ごすことはいくらでも可能なわけですが、あえて大変な生活に自分を落としているわけです。

裕福で楽な生活をするよりも、不便さの中で工夫して生活することをゲーム感覚でこなしていくほうが面白いのでしょう。

お金を稼ぐ意味って何だ

私が高校生の頃に読んだ「受験は要領」という和田秀樹さんの本に、勉強を頑張る目的として、東大に行けば生涯賃金が億単位で平均より上回るみたいな記述があって、つまり学歴を高めれば経済的に成し遂げられる確率が上がることを勉強のモチベーションとさせているわけです。

が、上記の例を見る限り、経済的に成し遂げても結局は生活レベルを落とした方が楽しいなら、いろいろがんばる意味って何だ。

最近私も株高とか為替変動とかで何やら小銭を作ったらしいですが、投資を始める前には「労働以外で資産を殖やすということを自分の実力でやってみたい」という大きな目標があったのですが、それをなしとげるための方法論が約10年かけて分かってきてしまうと、もうあまり投資に関してがんばることの興味もありません。
次にどんなことに目標を持って生きれば良いのか。

そんな折最近読んだ「人生の教科書 よのなかのルール (ちくま文庫)」の終章、宮台真司の「意味なき世界をどう生きるか」にその答えが書いてあった。

要するに、成熟社会で経済的に成功することの意味は何もなく、その無意味なことに向かって頑張るということ自体がナンセンスなのだと。
だから将来への目標を持つことをやめて「今ココ」を楽しめる人が結局は時代に適合できる人間なのだということらしい。
古市憲寿さんの「絶望の国の幸福な若者たち」でものすごい納得した論なのだけど、そのハードカバーの本が出版される6年前の文庫にすでに同じ論が書かれているとか、宮台真司ハンパない。

「今ココ」を楽しむには、まあいろいろゲーム感覚で他人から見たら「意味なくね?」と思うようなことでも楽しむ、他人との関係の中で。
で、他人というのは普通は庶民なのだから、大金持ちが「今ココ」を楽しむには、庶民レベルの感覚に会わせる必要があるわけで、要するに人生を楽しむ上でお金がたくさんある必要性は無いということか。

本多静六先生の本には「人生のどこかの時点で人間は貧乏を経験することになる」と書いてありました。
私は「うそだ、最初からお金持ちなら貧乏な生活をすることはありえないじゃん」と思ったものだけど、上記のようにあえて生活レベルを下げて貧乏生活を楽しんでいる人たちがいることを思うと、だんだん納得してきました。

最近の私のブームは、地域ぐるみでの子育てというものであって、そこには全くお金は介在しません。

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