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[民事訴訟法]同時審判の申出制度と主観的予備的併合と通常共同訴訟

   

[民事訴訟法]同時審判の申出制度と主観的予備的併合と通常共同訴訟

民事訴訟法にて、同時審判の申出制度と、通常共同訴訟における主観的予備的併合との関係について調べることがあったので、備忘録的に以下に調べたことをメモしておく。

参考文献としては、以下の3点を使った。

(参考文献)

  1. 原強(2014)『やさしい民事訴訟法』法学書院.
  2. 高橋宏志(2011)『重点講義民事訴訟法』(上・下,第2版)有斐閣.
  3. 伊藤眞(2016)『民事訴訟法』(第5版)有斐閣.

以下、バックをグレーがけして引用風にしているところは、ほとんど本の表現を使っているのでほぼ引用なのだが、微妙に自分なりに表現を変えたりしているので完全に引用したわけではない。

 民事訴訟法は、判決の効力は訴訟当事者間にのみ及ぶことを原則としており、個別相対的に紛争を解決することのできる権能を当事者に与えており、一定の場合には、当事者の選択により共同訴訟を行うことができるとしている。(参考文献1. pp.193)

 この共同訴訟のうち、通常共同訴訟は、本来は別個に訴えを提起し、追行することのできる当事者を異にする請求が、民事訴訟法第38条の要件を備える場合に、原告の選択により一つの訴訟手続で併合して審理されるものである。通常共同訴訟における審理原則は、共同訴訟人独立の原則が採用されている。この原則の下では、共同訴訟人は、他の共同訴訟人の訴訟行為に影響を受けることなく自由に訴訟行為を行うことができ、その効果も自らにのみ及ぶことになる。したがって、例えば各共同訴訟人は自白をすることも可能であり、その結果、他の共同訴訟人は全て勝ったのに、自白をしたために一人だけ敗訴してしまうということもありうる。(1. pp.194)

まあ原告も被告もまとめてグループ単位で訴えを起こすことはできるものの、判決については個別になされるのでチーム全員が勝つとかグループ全員が負けるとかそういう統一性がなくなることもありうるということだろう。

 この通常共同訴訟に属する類型として、共同被告に対する原告の請求が相互に法律上並存し得ない関係にある場合の訴訟がある。その一例としては、本人に対する契約上の請求と無権代理人に対する請求、工作物の占有者に対する損害賠償請求と所有者に対する請求等が挙げられる。前者の例では、一方で代理権授与の事実が本人に対する契約上の請求権の発生原因事実であり、他方、同じ事実が無権代理人に対する請求権の権利障害事実であり、したがって両者の請求権が並存することは法律上予定されていない。

 このような場合に原告としては、当該事実の認定の結果によりいずれかの請求権が認められると期待するのだが、請求を単純併合とすると、原告が一方で代理権の存在を立証し、他方で被告の立証に対抗して代理権の不存在を立証するなど、矛盾する訴訟行為を行うことによる整合性が問題となる。また、弁論の分離によって審理が別の手続きによってなされてしまう可能性もある。
(参考文献3. pp.638)

共同訴訟の典型例としては、矛盾するような論理のものをまとめ打ちしておくと保険になる、ということらしい。

つまり、単独で原告が一本ずつ打つよりもまとめ打ちした方がどれかで勝てる可能性があるから原告は当然まとめ打ちするのだけど、そうすると矛盾したことを原告が主張しているから見た目おかしいよね、という話。

 そこで、主観的予備的併合の概念が提唱された。先の例でいえば、原告が本人に対する請求について主位的に審判を求め、それが認められない場合に備えて予備的に代理人に対する請求を定立しておくというものである。仮に主位請求が認容されれば、予備的請求は解除される。裁判所は、まず主位請求を審判し、それが認められない時に予備的請求を審判することが義務付けられるため、弁論の分離権限を行使し得ないことになる。(3. pp.638-639)

見た目矛盾するような主張を各々ダブルトラックで請求するとおかしいので、じゃあ本当に保険をかけるような感じで、主位的主張をまずしておいて、明治的に保険をかける予備的主張をしておけば、まあ見た目もおかしくないよね、ということで生まれたのが主観的予備的併合と。

 しかし、このような予備的併合の概念に関し、客観的ではなく主観的な請求において適用する場合には大きく二つの問題が生じる。すなわち、第一に審判の統一が保証されているわけではないこと、第二に予備的被告の地位が不安定になるということである。限定された状況下においては主観的予備的併合の肯定説もあるが、判例では主観的予備的併合については否定説に立つ(最判昭和43・3・8民集22巻3号551頁)。

 否定説の論拠の第一であるが、主観的予備的併合を通常共同訴訟の枠内で考える以上、上訴の関係では手続が個別になることを避けることはできない。主位被告に対する請求が認容されれば、判決は原告と主位被告の間でしか出されない。その判決に控訴することができるのは主位被告だけであり、控訴審に行くのも主位請求だけである。予備的被告に関しては、判決も出されず、控訴もできない。主位請求と予備的請求は、手続が分断されることにならざるを得ない。また、主位被告に対して請求棄却、予備的被告に対して請求認容となる時も、通常共同訴訟であって上訴不可分の原則が働かないから、原告が控訴した時控訴審に行くのは主位被告に対する請求だけである。予備的被告が控訴した時も、控訴審に行くのは予備的被告に対する請求だけであり、控訴審の裁量で弁論が併合されない限り、両請求は手続を異にすると見ざるを得なくなる。つまり、いずれにも原告が負けることを防止するという統一審判が保障されるのは第一審においてのみであり、上訴があるとその保障は消失してしまうのである。
 否定説の論拠の第二は、予備的被告の不利益である。まず、予備的被告からすると、いつ自分に対する請求の審理が開始されるのかが不明であり、他人に対する主位請求の審理に終始拘束されるという点において不安定である。つまり、主位被告に対する請求の審理中は自分の出番がなく、あるとしてもせいぜい補助参加人としての立場にならざるを得ないため、予備的被告の地位は不安定である。また、主位被告に原告が勝訴した時には、予備的被告への請求は解除条件が満たされるので判決は出されず、予備的被告は何もしないまま、かつ何も残らないままに訴訟は終わることになる。ところが、主位被告が無資力で執行が行えなかったりすると、原告が予備的被告に再訴してくる可能性があるが、前訴は主位被告に対する請求が立ち、予備的被告に対する請求は立たなかったのであるから、この再訴は不当である。このように、予備的被告は不当に不利益な地位に置かれることになる。

(参考文献2.の下巻 pp.390-399)

しかし主観的予備的併合には2点の重要な問題があった。

まず1点目は、請求をした第一審しかダブルトラック的な主張は担保されておらず、第二審になるとその運用が消えて単独の請求しか上に行かないから、原告がせっかくかけた保険が第二審だと適用されないこと。

これによって原告は保険適用が得られなくなって不利益を被る。

また2点目としては、予備的に請求された被告側が、自分がどうなるのかわからなくて不安な日々を過ごす羽目になるということ。

確かに自分が訴えられてるのにどうしようもない状況が長々と続いたら、まな板の上の鯉的な不安が立ち込めて心臓がばくばくするだろう。

 そこで平成8年新法で設けられた同時審判の申出制度は、主観的予備的併合の上記問題点を解決しつつ、原告の合理的利益をも保護しようとするものである。
 同時審判の申出は、「共同被告の一方(Y1)に対する訴訟の目的である権利と共同被告の他方(Y2)に対する訴訟の目的である権利とが法律上並存し得ない関係にある場合」に原告が申し出ることによって認められる。これにより、弁論の分離はできず一部判決(判決の分離)もできなくなる。Y1に対する請求とY2に対する請求は法律上並存し得ないのであるから、Xは実体法上どちらかには勝つはずであるが、弁論・判決の分離が禁止される結果、同じ裁判官が統一的な法判断を下すことにより、これが保障されるのである。これは、主観的予備的併合が狙うところを別の形で実現しようとするものである。

 同時審判の申出は、複数被告に対する請求相互間において法律上両立し得ない場合における請求を単純併合の形態として認め、審判の分離及び一部判決を禁止することにより、事実上の審判の統一を図ろうとするものである。証拠共通により事実認定に関する判断の統一が図られる。同時審判の申出がなされても、請求の単純併合であることの当然の帰結として、共同訴訟人は共同訴訟人独立の原則の適用を受ける。
(1. pp.195-197)

上記問題点を解決するために生まれた「同時審判の申出制度」。

これを使用できる条件は、まあ2本の矛盾した論理を同時に主張したい場合に限られるということで、使用する条件としては上記「主観的予備的併合」と変わらないように見える。

 主観的予備的併合が狙うところの多くがこの同時審判の申出によりほぼ達成することができるが、主観的予備的併合に比べると、以下のような相違点が見られる。
 まず、主観的予備的併合では同一手続内の矛盾主張は順位をつけることによって回避されているが、同時審判の申出では単純に併合するのであるから矛盾主張が表面的には存在する。
 したがって、例えば、被害者Xが、占有者Y1と所有者Y2とを共同被告とする訴えを提起し、Y1に対しては占有者としての損害賠償責任を求め、Y2に対しては所有者としての損害賠償責任を求めることになるので、一見すると二重取りを目論むような虫のいい請求に見えてしまう。そして実際に両勝ちすることがありうる。例として、Y2は一度も出頭することがなかったが、結局、証拠調べの結果、裁判所はY1に工作物の管理に過失があったとの心証を得た場合、Y1に対する請求認容となることは当然のこと、一方でY2に対する請求についても認容となる。同時審判の申出がなされても、主張共通は働かないのであり、Y2は全ての期日に欠席しているので、自白擬制が成立してY2に対する請求も認容されることになるからである。
 一見すると、Xが法律上並存し得ない関係にある両請求につきいずれにも勝訴することは、全体から見ると不都合であるようにも思えるが、両請求は請求の単純併合であることの当然の帰結として共同訴訟人は共同訴訟人独立の原則の適用を受ける結果、Y1もY2も他の共同訴訟人とは無関係に、自白はもちろん認諾も自由にすることができるため、Xの両勝ちが認められているといえる。この場合、原告はどちらか一方で勝とうとしているのであり二重取りを目指しているわけではないことが、暗黙のうちに前提とされているのである。
 また、相違点の二つめとしては、上訴の規律が異なる点である。控訴するかどうかは、各人の自由に委ねられているのである。したがって、XがY1に敗訴、Y2に勝訴という場合で、負けたY2は控訴したが、XはY1に対して控訴しないという事態が生じうる。そして、控訴審の判断でXがY2に敗訴した場合、Xは第一審でY1に敗訴、控訴審でY2に敗訴で両負けすることになる。どちらにも負けるのを避けるために同時審判の申出が創設されたにもかかわらず、その趣旨が貫徹されないのである。もちろんこれはXがY1に対して控訴を提起しておかなかったことによる。しかし、Y2に対して勝訴しある程度の利益は確保したXが、さらに印紙代を払ってあらかじめY1に対する控訴をしておくべきというのは酷である。
 この状況で、控訴を提起しておかなかった原告の自己責任を問うべきか。Y2が控訴してきた時は、両者に負ける可能性が出てきたのであるからXもY1に対して控訴すべきだということはいえないではないが、Y2が控訴してくるかどうか事前にはXにはわからない。控訴期間徒過直前の控訴提起もありえ、Y2の控訴提起を知った時にはY1への控訴手続が間に合わないということも生じうる。また、Y2からの控訴に先んじて自分の方から先にY1に対して控訴しておくと、Y2からの控訴をかえって誘発することにもなりかねない。それでも、念のため控訴しておくべきであり、結果としてY2からの控訴がなかった際にはXが控訴を取り下げれば良いではないかとするのは、確かに控訴手数料の一部がかえってくるとはいえども、Xにとっては無用な労力及び出費になってしまう。すると、主観的予備的併合よりも全ての点で原告がメリットを享受できるとはいい難く、なお主観的予備的併合の必要性は残っているということもできる。
(2. pp.400-404)

つまり、ほぼ同時審判の申出制度が主観的予備的併合のほとんどの弱点を解決し、前者が後者を包含するような形にはなっているのだが、実は前者も完璧な論理構成になっているわけではなく、主観的予備的併合の方が適合性が高い場面も生じうるらしく、前者がいかなる時でも優るというわけでもないらしい。

しかし私のような素人からすると、どっちの論理構成もにたようなものであり、なんで同時審判の申出制度を使うと主観的予備的併合の問題点が解決できるのかしっくりこなかった。

こじつけのような気がしなくもないが、こういうのが法律解釈の考え方なのだろう。

 なお、同時審判の申出制度が新たに設けられた現行法の下でも、主観的予備的併合が認められる場合がある。例えば、未成年者Yが第三者に被害を与えた場合、不法行為能力との関係で未成年者に責任が問えるかどうかが微妙な事案においては、Yを主位被告として、法定代理人である親Zを予備的被告として損害賠償を求める訴えを提起することが行われる例である。主観的予備的併合の問題点の一つが予備的被告の地位の不安定さであったが、法定代理人は、予備的被告とされなくても、未成年者に代理して訴訟追行に関与しなければならない立場にあり、予備的被告の地位の不安定さという不都合は軽減される。したがって、主観的予備的併合が例外的に認められる余地がある。
(1. pp.197)

実務的には主観的予備的併合が認められることもあるという。

まあ法的能力がない者が訴訟の被告になった場合のようだ。

しかしこれにおいても別に同時審判の申出でも解決できるような気がするので、全体的には同時審判制度の方がまさるのだろう。

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